2014年6月30日月曜日

6月30日

おはようございます。
いい朝ですね。
服従するのは主体と一つになって主体の栄光に参与するためである

天一国2年天歴6月4日
今日のみ言葉

巨大な秘密の門を開ける鍵
◇4月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、5月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負って2キロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を1銭、2銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。

 助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「10を助けなさい」と言うのに、5しか助けないのでは駄目です。「10を与えよ」と言われたら、100を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。


 陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。

2014年6月29日日曜日

6月29日

おはようございます。

□名だけ先生の代わりにならずに、責任、心情において先生の代わりにならなければならない。

天一国2年天歴6月3日
今日の訓読のみ言
復帰は信じ愛すること

◇神が人間を創造した目的は何かというと神が信じてやりたい、そういう変わらない 人間だと、神が信じてやりたいと、人間がいくら変わっても、歴史を越えて、その 基準を維持してこられたのが、神様である。さあ君たちは信じることのできない者でも、信じてやる。騙されても信じてやる。それが神様である。愛してやる、共に住みたがる。お父さんもそうだよ。父母がそうでしょう。信じられない者を信じてやる。その基準において、変わらない純粋な人間、そのような人にならないといけないということを我々は知っております。本当の人、真の人はその基準において、一致したところにおいて、満たすことができるのではないか。そういう人同士、信じ合う、愛し合う、共に生き合う、その世界が地上天国である。天国の世界である。君たちもそうでしょう。神様みたいな人を、旦那さんに、奥さんにと願うでしょう。それは同じである。

 信じられない者を信じてやるし、愛されない者を愛してやるし、それは自分と共に住めないような者であっても、住んであげたい。そのような思いが、神様において変わらないでいくならば、必ずその人間は、そういうところを見合った場合は、感動して、再び帰る道があるから、神様は、今まで復帰の道をたどってきているというんです。  イエス様が、聖人と言われるようになったのも、怨讐たちまでも祝福していった、 愛していったということが、神様と世界中の人々を感動させたからです。共に住みたがる、共に信じたがる、そういう思いでいたのです。だから、イエス様は、歴史を動かしました。


 聖書66巻、たくさんのことが書かれていますが、すべて総合すれば、信じることを、愛することを、共に生きなさい、とそれ以外にありません。では我々統一教会において、どちらがもっと純粋で、信ずべき人かと言うと、そうした場合、神様みたいに、それは信じられない立場にあっても、信じてやる、愛されないような立場であっても、愛してやる、共に住むことができないような立場であっても、住んでやるというようなことを、続ける人ならば、必ず、その環境において、その人は勝利する。

2014年6月28日土曜日

6月28日

おはようございます。
最後の聖日を迎えますので最善の精誠で行きましょう。
□千秋万代に公認されて誇ることができる伝統を立てよう。

天一国2年天歴6月2日
今日のみ言葉

復帰は信じ愛すること

◇神が人間を創造した目的は何かというと神が信じてやりたい、そういう変わらない 人間だと、神が信じてやりたいと、人間がいくら変わっても、歴史を越えて、その 基準を維持してこられたのが、神様である。さあ君たちは信じることのできない者でも、信じてやる。騙されても信じてやる。それが神様である。愛してやる、共に住みたがる。お父さんもそうだよ。父母がそうでしょう。信じられない者を信じてやる。その基準において、変わらない純粋な人間、そのような人にならないといけないということを我々は知っております。本当の人、真の人はその基準において、一致したところにおいて、満たすことができるのではないか。そういう人同士、信じ合う、愛し合う、共に生き合う、その世界が地上天国である。天国の世界である。君たちもそうでしょう。神様みたいな人を、旦那さんに、奥さんにと願うでしょう。それは同じである。

 信じられない者を信じてやるし、愛されない者を愛してやるし、それは自分と共に住めないような者であっても、住んであげたい。そのような思いが、神様において変わらないでいくならば、必ずその人間は、そういうところを見合った場合は、感動して、再び帰る道があるから、神様は、今まで復帰の道をたどってきているというんです。  イエス様が、聖人と言われるようになったのも、怨讐たちまでも祝福していった、 愛していったということが、神様と世界中の人々を感動させたからです。共に住みたがる、共に信じたがる、そういう思いでいたのです
。だから、イエス様は、歴史を動かしました。

 聖書66巻、たくさんのことが書かれていますが、すべて総合すれば、信じることを、愛することを、共に生きなさい、とそれ以外にありません。では我々統一教会において、どちらがもっと純粋で、信ずべき人かと言うと、そうした場合、神様みたいに、それは信じられない立場にあっても、信じてやる、愛されないような立場であっても、愛してやる、共に住むことができないような立場であっても、住んでやるというようなことを、続ける人ならば、必ず、その環境において、その人は勝利する。

2014年6月27日金曜日

6月27日



おはようございます。6月も27,8,930あります。
私が出来る物は、出来る物は。
□神様に対して不平を言うな。その不平は解くことができない罪禍となる。

天一国2年天歴6月1日
今日のみ言葉

◇サタンの戦法は、打って滅びる戦法である。自分の利益のために人を犠牲にし、成功しようとする戦法である。神の戦法は、自分を犠牲にして打たれて勝利しようとする戦法をとっている。これはまるっきり違うんだね。

 サタンの戦法はどうか、悪人の戦法はどうか? 悪人は自分のために他を足で踏みつけて、自分が成功しようとするものである。善人は奉仕してみんなを良くしようとする。そうすると、自動的にみんなを引き連れて入る。中心人物として立たせられるようになる。ここには、戦わずしてすべてが占領される道が生じてくる。だから神は早く良くしてやろうという戦法で、負けたことはありません。

 過去の聖人たちは、打たれて歴史を経るにしたがってだんだん打った国の後孫が、打たれた者の僕になってしまうという結果になって、発展してきている。それが歴史の事実である。原則はこういうふうになっている。だから統一教会はこの戦法をとる。

 例えば、2人の兄弟がいる。兄さんと弟さんがいる。満20歳の兄と10歳の弟がいる。
その場合に、親は兄さんに毎日相談をするんだね。しかし、そういう兄さんが何の罪も犯していないその弟に対してぶったならば、何の悪いこともしていないのに手をつけたならば、父母が兄さんを中心としていたすべては直ちに崩れてしまうのです。そして弟のほうを助ける。絶対的にそうである。なぜ弟をいじめるのか。何が悪いか。それに反発した場合には永遠に切られてしまう。

 だから善悪はどこから始まるや? 先に被害を与えたところが悪である。
いくらいいことを言っても、被害を与えた場合には悪に終わる。これをはっきり知らなければならない。悪くないのに、その国が攻められた場合には、攻めた国が攻められた者に支配される。その原則を、はっきり知らなければならない。統一教会の食口としてもいい人はいい人である。カイン・アベルである。被害の動機になった人、それはカインである。エデンの園において天使長はアダム・エバに被害を与えた。被害を先に被らせる者が悪である。それを治めるのが法律である。被害を与えた者が善か悪か? それは一般社会での悪、サタン世界の悪も通じるんだよ。

2014年6月26日木曜日

6月26日

おはようございます。
6月の最後の3日路程を通じ伝道、祝福に頑張って行きましょう。

□生きている者は発展するのが当然だ。
天一国2年天歴5月29日
今日のみ言葉

◇生きた死体となってはいけない。人間自身にサタンが残っている
                                                          心情の境
 先生は今まで、ある時は悲しい立場に、ある時は嘆く立場に、又ある時には表現しきれない悲惨な立場に立った事もある 。しかしどういう時でも神に対して慰めを求める、救いを求めるというような祈りをすることが出来ないというのが、先生の立場である。何 故か、アダムは神から全てを授けられたのだけれど、神に逆らい自分自身からこれを投げ出してしまった。だからそれを蕩減する 立場に立って、再び神から祝福せられなければならない。

 これは天則である。だからある蕩減の限界に入るというと、死にたくもなる。 そういう時には祈りも何もすることが出来ない。そういう立場があって、全てのサタンの方から狙われる。神の方はその立場をみながら。どうすることも出来ない。

 人間自身にサタンが残っているから、分別しなければならない立場にあるわけだけれど、分別圏内にあるその段階にあるその段階 においては、心情ばかりでは通じないというのです。勿論分別がなされてからは、神ばかりによる立場に立って心情を中心として、 それから審きという問題が始まるわけです。だからそこに行くまで何でもって分別しながら行くかというと知恵でもってする。そういう立場においては、神も教えてやる事が出来ないのであるから、体験によってサタンに対応する戦法、即ち戦いの方法をあらゆる 方面から活用させて、そして環境を分別してサタンを追い出さなければならない。先生は今もそういう戦いをしている。それは誰にも相談する事が出来ない。
たった一人でこれを解決していくお母様はお父様について来ます。絶対服従すれば 通ずるんです。何故 かというと、エバがアダムを主管したのが堕落であるから、このあやまちから復帰きされるには、アダムに完全に主管されなければならない。しかし最前方に立って闘うのはアダムがやらなければならない。それは60数億の民を悩みの底に落しているのはサタンで ある。しかし天使長をしてサタンとならしめた
、即ちそれを決定ずけたのは誰かというと、アダムである。エバじゃない。だから アダムが 最後の決断をしなければならないという立場が、どこまでもある。だからこれを世界のはてまで追いよせてゆかなければならないというのが先生の使命観であるわけです。

2014年6月25日水曜日

6月25日

おはようございます。
国を愛することのできない者は決して神様を愛することができない

天一国2年天歴5月28日
今日のみ言葉

メシヤとは何か
 ◇宗教圏内には、再臨思想がある。再臨思想、つまりメシヤ思想が残っている。メシヤたる者はいったい何者なのか。神様の一番愛する者がメシヤだ。では、どういう立場が神の一番愛する立場か。神様から送られるメシヤを神様は愛するのに、いかなる位置において、いかなる立場において愛すべきか。神様の前に立つ者はいろいろいる。国を代表した者もいるだろう。あるいは社会を代表した者、あるいは団体を代表した者、いろいろな代表の男がいる。メシヤたる者はいったい、神の前にどういう男か。神もそういう者が必要だね。メシヤたる者はいかなる者か。メシヤは、ただ一つ、神の内心にあったその愛があるとすれば、その愛の全体が集結したその愛、方向を固め、出発点を同じくして、一致した方向のその愛を、総合された愛を受ける最初の者である。その者とは何か。神の前に初めて生まれた長男。長男だね。分かりました?

  メシヤとは何かというと、神の愛の前に初めて生まれた、神の愛の前に立った、初めて神の長男としての愛を受けるそういう立場に立った者がメシヤだ。だから、イエス様もそういうことを言ったんだね。イエス様はひとり子、一人息子である。ひとり子、息子であるというのは、全体の愛を受けることである。始めから終わりまでね。神が絶対なる主体となれば、(メシヤは)男として、絶対なる主体圏に立つ者だ。
それはどんな立場か。父子の関係だ。父子の関係。分かりました?だから神の全体の愛を、個人に向ける愛、それから家族に向ける愛、氏族、民族、国家、世界に向ける愛。神の長男の子供として、すべての圏を超越したその基準において、代表的な愛を受ける資格をもって来られる者が何?(メシヤ)。だから、神の子供。神の愛する子供が生まれてきた。

 しかし、愛する子供一人で何になるか。子供自体は、その相対者を得なければならない。相対者をどこから得るか。天上から得るんじゃない。堕落の結果地上で失ったんだから、地上で再創造しなければならない。それで地上において宗教は何をやったかというと、天がプラスと言えば、地はマイナス。だから、天に向けてメシヤを願う。愛の主体者を願うところは神様ではなくして、この地球だね、人間世界だね。主体の愛を願うんだ。その思想がメシヤ思想だ。

2014年6月24日火曜日

6月24日

おはようございます。
□私が、見ることも話すことも、すべてを相対のためにするときは善である。

天一国2年天歴5月27日
今日のみ言葉

神様の祖国解産完成より
皆さんの心の中で常に考えなければならないことは何でしょうか。天が愛され、希望する祖国です。イエス様が十字架で亡くなられたのち、今まで二千年間、希望をもって闘ってきた目的はどこにあるのですか。家庭を願ってきたのではありません。氏族と民族と国家、最後の目的は祖国のためだというのです。国のない民は最も哀れです。国がなければ、いくら愛する父母と親族がいたとしても、怨讐の国が来て襲いかかってくれば、彼らは悲惨なことになるのです。ですから、最高の一念とは何でしょうか。「祖国」という言葉です。祖国の中には、民族が入っていて、氏族が入っていて、家庭が入っていて、個人が入っています。皆さんは、これを知らなければなりません。(155―217、1965・10・30)

今日、先生が言う「祖国統一」というものは、今日の統一教会を中心とする祖国統一ではありません。神様を中心として、過去、現在、未来の人々が願った理想の上に立って言う祖国統一です。そのような祖国統一が、今日のこのような疲弊した基準値以下の立場で、語り、考え、行動することによって成し遂げられ、達成できると考えているとすれば、それは大きな誤算です。このような考えを是正し、撃破しなければなりません。


 祖国統一というものは、統一教会を越えて成し遂げられるものです。摂理史的に世界を越えて復帰される神様の祖国を意味するのです。ですから、私たちが求める祖国は、私たちだけのものではありません。神様も求め願われる祖国だというのです。このような概念を私たちは知らなければなりません。(172―163、1988・1・10)

2014年6月23日月曜日

6月23日

____0623_____
おはようございます。今月最終の一週間を天の父母様と真の父母様と一緒に頑張りましょう。
□サタンも行けないという道を行かなければならない。サタンを追い払うためである。


天一国2年天歴5月26日
今日の訓読のみ言 〓

神様の祖国
神様の祖国解産完成より

◇皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私たちにも祖国がないのです。私たちは、この祖国を建設しなければなりません。神様の真の愛と私たちの愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人、家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。これが原理観です。(134―216、1985・7・20)

 皆さんの心の中で常に考えなければならないことは何でしょうか。天が愛され、希望する祖国です。イエス様が十字架で亡くなられたのち、今まで二千年間、希望をもって闘ってきた目的はどこにあるのですか。家庭を願ってきたのではありません。氏族と民族と国家、最後の目的は祖国のためだというのです。国のない民は最も哀れです。国がなければ、いくら愛する父母と親族がいたとしても、怨讐の国が来て襲いかかってくれば、彼らは悲惨なことになるのです。ですから、最高の一念とは何でしょうか。「祖国」という言葉です。祖国の中には、民族が入っていて、氏族が入っていて、家庭が入っていて、個人が入っています。皆さんは、これを知らなければなりません。(155―217、1965・10・30)

今日、先生が言う「祖国統一」というものは、今日の統一教会を中心とする祖国統一ではありません。神様を中心として、過去、現在、未来の人々が願った理想の上に立って言う祖国統一です。そのような祖国統一が、今日のこのような疲弊した基準値以下の立場で、語り、考え、行動することによって成し遂げられ、達成できると考えているとすれば、それは大きな誤算です。このような考えを是正し、撃破しなければなりません。



 祖国統一というものは、統一教会を越えて成し遂げられるものです。摂理史的に世界を越えて復帰される神様の祖国を意味するのです。ですから、私たちが求める祖国は、私たちだけのものではありません。神様も求め願われる祖国だというのです。このような概念を私たちは知らなければなりません。(172―163、1988・1・10)

 神様の祖国は、どこから取り戻してくるのでしょうか。どのような道を通して取り戻してくるのでしょうか。怨讐を愛する道です。個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐を愛し、氏族の怨讐を愛し、民族、国家、世界の怨讐を愛する、この伝統的な道以外には、そのような理想的な祖国は現れないということを知らなければなりません。(107―22、1980・2・2

2014年6月22日日曜日

6月22日

おはようございます。
□自分自身を一度振り返ってみよ。私は後退しているのか、それとも前進しているのか。

天一国2年天歴5月22日
今日の訓読のみ言

神様の祖国

皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私たちにも祖国がないのです。私たちは、この祖国を建設しなければなりません。神様の真の愛と私たちの愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人、家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。これが原理観です。(134―216、1985・7・20)

 皆さんの心の中で常に考えなければならないことは何でしょうか。天が愛され、希望する祖国です。イエス様が十字架で亡くなられたのち、今まで二千年間、希望をもって闘ってきた目的はどこにあるのですか。家庭を願ってきたのではありません。氏族と民族と国家、最後の目的は祖国のためだというのです。国のない民は最も哀れです。国がなければ、いくら愛する父母と親族がいたとしても、怨讐の国が来て襲いかかってくれば、彼らは悲惨なことになるのです。ですから、最高の一念とは何でしょうか。「祖国」という言葉です。祖国の中には、民族が入っていて、氏族が入っていて、家庭が入っていて、個人が入っています。皆さんは、これを知らなければなりません。(155―217、1965・10・30)

今日、先生が言う「祖国統一」というものは、今日の統一教会を中心とする祖国統一ではありません。神様を中心として、過去、現在、未来の人々が願った理想の上に立って言う祖国統一です。そのような祖国統一が、今日のこのような疲弊した基準値以下の立場で、語り、考え、行動することによって成し遂げられ、達成できると考えているとすれば、それは大きな誤算です。このような考えを是正し、撃破しなければなりません。

 祖国統一というものは、統一教会を越えて成し遂げられるものです。
摂理史的に世界を越えて復帰される神様の祖国を意味するのです。ですから、私たちが求める祖国は、私たちだけのものではありません。神様も求め願われる祖国だというのです。このような概念を私たちは知らなければなりません。(172―163、1988・1・10)

 神様の祖国は、どこから取り戻してくるのでしょうか。どのような道を通して取り戻してくるのでしょうか。怨讐を愛する道です。個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐を愛し、氏族の怨讐を愛し、民族、国家、世界の怨讐を愛する、この伝統的な道以外には、そのような理想的な祖国は現れないということを知らなければなりません。(107―22、1980・2・2

2014年6月21日土曜日

6月21日

おはようございます。
□祭物は平和的な立場において捧げるのではなく、常に第一線において捧げるのが原則である。

天一国2年天歴5月24日
今日の訓読のみ言

教派ではない教会、教会でもない教会

 1953年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年5月、奨(チャン)忠壇(チュンダン)公園に近い北鶴(プカク)洞(トン)のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。

 「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。

 とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。
にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。
 
仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でない者と区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。

2014年6月20日金曜日

6月20日

おはようございます。
□「私の力でやれることはすべてなしました」という基準を立てるのが一番重要である。


天一国2年天歴5月22日
今日の訓読のみ言

先生は針皆さんは糸

◇今の、我が国の情勢は非常に緊迫(きんぱく)している。キリスト教では、既に2000年の前からこのような時が来ることを警告している。では、いったい誰がこの国に対する責任を負わなければならないのだろうか?それは統一教会の勇士たちがその責任を負わなければならないのだ。

我々は今、「破れた国」という着物を縫(ぬ)い繕(つくろ)わなければならない立場であると例えてみよう。すると、この私は針であり、皆様は糸のようなものである。糸は針にくっついていなければ着物を縫うことができない。針だけいくら通っても駄目だ。で、針も重要であるけれども、糸もまた重要であるという事実を皆様は、はっきりと認識していなければならない。皆様と私が一緒になって、針と糸との関係を結び、そして破れているこの国、あるいは世界という「着物」を修繕しなくてはならない。

もし、国家が滅んでしまえば、統一教会は行くべき所がない。そういう意味からしてでも、我々はこの国家を固守しなければならない。我々はいたずらに共産主義を恐れてはならない。我々は、我々が既に決意したところを勇敢に実践しなくてはならない。我々は何も持たない裸の立場である。しかし我々は共産主義に勝ることができる。我々統一教会の人たちが国家以上のことをするようになる時には、天が我々を保護するだろう。ここに勝敗の鍵があると
私は思うのである。それで我々は勝利を眺めることのできる勇士とならなければならない。

我々は敗者としての悲しみを味わうようになってはならない。このような角度から我々は自我を分析し、批判しなければならないと思う。そして勝利のための苦難を克服する覚悟を決める時が今なのである。常に国を憂(うれ)う人は悲しい人にならざるを得ない。もし皆様の中に本心から国家を憂い、世界を心配する人がいるとすれば、国を、この先生よりももっと愛し、世界をこの先生よりも、もっと愛さなければならない。そのような皆様は決して滅びることがないだろう。


我々は自分の責任を尽くせない人になってはいけない。ゆえに我々は、我々の責任を全うするために倍の努力を傾けなければならないのである。
我々は滅んではならない。滅ぶことができない。現在のあらゆる難関を克服しなければいけない。全体を投入して現実を救わなければならない。もちろん、金も必要だろう。その他の物質も必要な時があるだろう。判断に困る時があるかもしれない。

しかし我々は勇敢に前進しなくてはならない。この先生はどこへ行っても皆様のために祈るだろう。ゆえに皆様も現在を克服しなければならないのである。