2016年9月3日土曜日

9月3日

「わたしはやさしく、謙遜な者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしとい​​っしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。 わたしが与えるのは軽い荷だけだからです。」」
‭‭(マタイの福音書‬ ‭11:29-30‬ ‭)

天一国四年天歴8月3日
今日の訓読み言
天聖経(174p18)
   幸せとは何でしょうか。父母を失ってしまった孤児のような民が、六千年目に父母と巡り合うことです。 これ以上に喜ばしいことがどこにありますか。宗教をもつことは、このような父母と巡り合うことに加担することです。永遠に死んだと思っていたのに、その死んだ父母が生きることができるというのです。父母が生きることができるのなら、私たちは、手段と方法を選ぶことができません。父母と出会うのに、財産が問題ですか。親戚が問題ですか。国が、世界が問題ですか。何も問題になりません。すべてを後回しにして、父母と出会うために、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。
◆み旨の道
   深く植えれば植えるほど遅く芽生えるものである。あまり時を急ぐな。六千年間植えておいた復帰歴史が一日にしてなされようか。
◆ナマステ~アジュー
「さあ、東岡山らしく勇気を出せ。恐れや迷いを蹴散らせ。いいか、どこへ行っても、おまえの神であるわたしが、ついているのだ。」 (ヨシュア記 1:9 )

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