イエス様はゲッセマネの園で夜を明かして祈祷しました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と言って祈祷しました。それは「この地上にあなたが私を送られたのはお父様の基準を立てるためであり、私が生まれたのは息子の基準を立てるためでした。しかし、お父様の基準を立てていない立場でこのように挫折するわけにはいきません」という意味でした。それがイエス様の心情であったことを知らなければなりません。天地が崩れるようなことがあったとしても、お父様のみ旨に背くことはできなかったのです。
天一国3年天暦9月26日
今日の訓読み言
(天聖經918p 12)
神様のみ旨の前に召された責任者として、召命的責任をまとうしなければなりません。韓国人は韓国の人としての召命、世界的メシヤとしての召命があります。「召」の字は、命令の呼びかけを意味します。軍隊の出動命令と同じです。召命的使命を全うしなければならないのです。
[今日考える]
あなたはいつ召命されたと感じていますか?
◯み旨は我々のすべての幸福の要素であり、我々の誇りであり、我々の権威であり、我々の知識ともなる。人は生まれてそのまま死んでいけるけれども、み旨は、そのままで消え去ることはできない。必ず身を結び、結末をつけなければならない。
◯疎通と共有、笑顔で感謝
今日も、絶対いいことあるよ!
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