2016年1月19日火曜日

1月19日

皆さんは体恤信仰をしなければなりません。自分の信仰の結果を測定することができなければ、神様が共におられるのか、悪が共にあるのかが分かりません。その体恤信仰を育てていけば、道を進み出るときに祈祷しなくてもかまいません。第一歩を踏み出すとき、「この道はどのような道だろうか? 神様が喜ばれうる道か、残念に思われる道か?」ということが分かります。

天一国3年天暦12月10日
今日の訓読み言
天聖經(106p25)
   皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されるときには、慰めを受けることができます。神様は誰よりも悲痛さを経験していらっしゃるので、その神様を誰も慰労することができません。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなっている恨をいかにして解くかということが、神様の内的な事情です。神様は、このような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられました。霊界は、時間と空間を超越した世界なので、六千年前の悲しみも、歴史時代圏の中に永遠に残るのです。もし、自らを祭物として捧げたという体験によって喜びを感じたとすれば、それが時間圏の内容であっても、生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、それが無限の根源と関係が結ばれるというのです。これから皆さんが、このような神霊的な体験をして、そのような内容をもって実行するようになれば、神様が今まで受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながってきたということが分かるでしょう。
◯み旨の道
怨讐である自分自らを打ち、生きて果たせなければ死んででも成そうという心情をもたねばならない。
◯疎通と共有、笑顔で感謝
今日も絶対いいことあるよ!

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