2016年1月24日日曜日

1月24日

祈祷はどうしてするのでしょうか。どうしていたずらに祈祷をするのですか? 神様は、祈祷してくれることを願われて皆さんをつくられたでしょうか。神様は人間が自分の事情をもって祈祷する姿に向かい合われ、苦痛を感じられます。ですから、悲しみの神様であるという結論が出てくるのです。(16-6-7-115,166.1.2)
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天一国3年天暦12月15日
今日の訓読み言
天聖經(107p30)
   あなたと「私」の二人が神様の愛を中心として愛し合い、み旨を中心として愛し合うなら、どれほど素晴らしいでしょうか。そうすることのできる家庭、そうすることのできる氏族、そうすることのできる民族、そうすることのできる国家、これが私たちの望む願いです。そのような圏内に「私」が包括されて生きている立場、すなわち歓迎し、呼吸し、授け受けする圏内で、私が主体的な立場で挙動しながら生きるという立場に立つとき、それこそ痛快なことではないでしょうか。無限の世界が伸びていき、無限の世界が縮小され、主体としての調和の関係を提示できる私であり、脈拍の起源に波動を起こさせる私だということを考えるとき、どれほど痛快な立場かというのです。そのような私がどこかに行くようになれば、神様もついてきます。私が隠れてしまえば、神様も困ります。それができると自覚されたところから統一の要因が決定されるのです。

◯み旨の道
真なる善と幸福は、家庭よりも、国家、世界、天地間の創造主の心の中におかねばならない。
◯疎通と共有、笑顔で感謝

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