世界を挙げて「正しい」と主張しても、聞こうともしない。振り向くこともしない。それで済めばいいんだけれど、「これは問題になる、切ってしまわなければならない」と言って除去してしまう。そういうように、天に向かう使命を天から召命された人たちは、その時代の迫害を受けるのが常識的になっている。当然、そういうような迫害を受けるようになっていると思うような世界になってしまった。
天一国3年天暦7月6日
今日の訓読み言葉、
(天聖経845p10)
信仰生活は体恤です。体恤しなければ分からないというのです。ですから、体恤しなければなりません。体験ではなく体恤です。体恤というのは何でしょうか。天が悲しい時、「私」がその悲しみを知らなければなりません。その悲しみが感じられるのが体恤です。体恤すれば、折りが必要ありません。
[今日考える]
◯体験と体恤の違いは何か?
◯私たちは「自分の不足さを
自覚しなければならないよ」という言葉でした。
◯疎通と共有、笑顔で感謝
今日も絶対いいことあるよ❗️
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