いくら世の中で恐ろしいといっても、私以上に恐ろしい人はいないでしょう。私が、だれかに死ねと祈祷すれば、三か月で終わるのです。しかし、そのような祈祷はしません。人に対して死ねという祈祷はできないのです。
天一国3年天暦11月19日
今日の訓読み言
(天聖經100p4)
神様は、栄光をもって出現される存在です。人間の喜びが神様の喜びであり、神様の喜びが人間の喜びになることが創造理念なのですが、その理念は行き場を失い、神様は凄絶な姿になりました。人間の前に現れる神様の姿は、栄光の姿ではありません。どのような凄惨な個人や民族とも比較できないほど、凄絶な立場にある神様です。本来、神様は栄光の姿でしたが、人間が堕落したその日から、その反対の姿でいらっしゃるようになったのです。神様はあらゆるものを子女である人間に任せることができ、人間はあらゆるものを父なる神様に任せることができるというのが、神様と人間の相互の立場でしたが、そのようにすることができなくなりました。凄惨な姿で子女たちの前に現れるしかない父母の心情が、どれほど苦しいでしょうか。しかし、自分の苦痛と事情を告げたいと思わず、無限に骨を折られる悲しい姿を見せたくないと思われる神様です。
◯み旨は我々のすべての幸福の要素であり、我々の誇りであり、我々の権威であり、我々の知識ともなる。
◯笑顔で感謝、今日も絶対いいことあるよ!
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